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「ドゥルーズのイロハ」
「『アベセデール』, 文字を超えた, 動物による連続ドラマ」(イヴェント群「ジル・ドゥルーズとともに」の一環でのシンポジウム), 2007年10月21日 (於 : 東京日仏学院).


ジル・ドゥルーズを撮ったヴィデオ『アベセデール』(ピエール‐アンドレ・ブータン監督, 1996) の部分的上映の後でおこなわれたシンポジウムで, 司会者 (廣瀬純氏) の問い「『アベセデール』は何への導入か」を承けて読まれた文章です. 他の参加者はダヴィッド・ラプージャド氏, エルヴェ・オブロン氏でした.
以下は, 準備しておいた原稿をもとに話した内容を, 記憶にもとづいて再現したものです. 当日の発表と細部が異なっている可能性はありますが, 大筋は合っているはずです.
また, 当然のことながら当日は「です・ます」調で話しました.


 『アベセデール』は何への導入かという廣瀬さんからの問いかけに対して, 私はまず平凡な回答を与えたい. 私はドゥルーズの良い読者ではない. また, 大学で一般教養を教えることを生業としているということもある. そのような私は, このヴィデオを端的にドゥルーズの思想への導入として使える, よくできた作品だと思った.

 しかし, それだけではつまらない回答にしかならない. そこで以下, どのような点でこの『アベセデール』がドゥルーズの思想への導入になりうると思ったか, 3点を挙げて説明してみたい.

 フランス語で「アベセデール」とはABCということだ. ABCとはアルファベットの最初の3文字でもあるし, そこから転じて「基礎的なこと, 初歩的なこと」という意味にもなる.

 ちなみに, 日本語では「イロハ」という言葉がある. これは日本語の文字の配列の最初に登場する3文字であり, またABC同様に, 初歩的なものというニュアンスももっている.

 そこで今回は, 『アベセデール』の真似をしてドゥルーズの「イロハ」を挙げてみることにする.

 まずは「イロハ」の「イ」. イッポテマエ (1歩手前) である.

 1歩手前というモティーフはこのヴィデオにも, ドゥルーズの作品全般にも, しばしば現れる.

 このヴィデオの「B (飲む)」では, 飲ん兵衛の「最後の1杯手前にたどりつきたい」という欲望について語られていた. この話は莫迦げた笑い話であり, ドゥルーズでなくとも誰でも話すだろうことではある. しかし, これがじつはドゥルーズのある種の引きこもり, 1歩引き下がるという思考の身振りを理解する助けになってくれる.

 「A (動物)」では, ある種の動物に対する彼のこだわりが語られていた. そこで中心的に取りあげられるのは生物学者ユクスキュルの研究したダニの環境世界だった. それによると, ダニには3つの知覚刺激しかないという. 3つの知覚刺激からなる環境が, ダニにとっての全面的世界を形成しているという.

 重要なのは, これが, 人間というある種メジャーな知覚をもった存在からのマイナーへの引きこもりとしてイメージされているということだ. 世界のメジャーな知覚の1歩手前へと引き下がり, マイナーな知覚の世界へと引きこもること. これがドゥルーズの思考の身振りだ.

 彼は動物のために (pour) 書く, とも言っているが, その「のために」とは「の場で, に代わって」ということを意味している. ダニのところに身を置いて, ダニの代わりに語ってみるということ, ダニへと引き下がってみること, これが大事なのである.

 それによって「見える」ようになるものがある. 哲学者の務めとは, ドゥルーズによれば, ある種の事柄を「見せる」, つまり見えるようにすることであるという. この引きこもりによって見えるようになるもの, それこそが, ドゥルーズが『アベセデール』で――もちろん『アンチ‐オイディプス』でも――倦まず語っている, 「欲望する機械の配備」なるものに他ならない.

 このありようは「内在」とも「マイナー」とも呼ばれ, 『アベセデール』の各所に姿を現しているが, 「1歩手前」もまた, これらを指し示すキーワードたりうるはずだ.

 次に「イロハ」の「ロ」. ロウジンリョク (老人力) である.

 今, 会場から少し笑い声が聞こえたことからわかるとおり, これは日本ではかなり知られている, しかもドゥルーズとは表面上まったく関係のない単語である.

 これは, 戦後日本の代表的な前衛芸術家である赤瀬川原平――日本版のシチュアシオニストと言ってみてもいいかもしれない――が考えた概念である. 同名の本が1998年に刊行され, ベストセラーになった.

 1937年生まれの彼は60歳になったころ, 記憶力が衰えたことをたびたび思い知らされることになった. 何かを思い出そうとしてもなかなか思い出せない.

 それは通常であれば, 能力の低下, たとえば記憶力の低下として語られるはずのものである. だが, 前衛芸術家である赤瀬川はこれを逆手に取り, 「老人力が上がった」と解釈してみせた.

 「老人力」とはそのような新語であるが, ここで「ドゥルーズは老人力の人である」と言ってみたい.

 もちろん, 60歳を超えた老人ドゥルーズの姿が『アベセデール』に確認されるということからもその連想は正当化されよう. だが, もっと重要なのは, 老人力という考えかたがドゥルーズの語っていること自体と完全に一致しているということである.

 「J (喜び)」で, ドゥルーズは悲歌なるものについて語っている.

 彼によれば悲歌とは「私の身に起こっていることは, 私の力を凌駕している」という嘆きのことだという.

 私は何らかの力, 潜勢力を保持しており, にもかかわらずその力を超えることが私の身に起こっている, ということである.

 このありさまの偉大さをドゥルーズは讃え, これを「悲しみ」とはっきり区別している.

 悲しみとは, 力から分離されてあるということである. 力から, 潜勢力から分離されてあるとはつまり, 必然性へと運命づけられてあるということである.

 たとえば, ペットのイヌやネコに対するドゥルーズの嫌悪は「A (動物)」でも示されていたが, それはペットが――またその飼い主である人間も――「家族」という体制によって力から分離され, 必然性へと運命づけられているからである. すなわち, イヌもネコも人間も, その意味で「悲しい」存在なのである.

 それに対して「悲歌」とは, 喜び――つまり力, 潜勢力――の極端な, 逆説的な形での現れ, ほとばしりである.

 ドゥルーズは老いているだけではなく, 『アベセデール』の「M (病気)」でも確認できるように病気がちでもある. だが, 病気についても彼はまったく同じ立場を取っている.

 彼は老いも病気もまったく否定などしていないのである.

 病気は自分にとって敵などではなく, むしろ生命を研ぎ澄ませ, 生命に耳を傾けさせるものだ, ということさえ言っている. また, 老いについてもこれと同じことを言っている.

 これも一つの「1歩手前」と言えるかもしれないが, この特殊な1歩手前を「老人力」と名づけることは, けっして不適切ではないだろうし, 私たちに何らかの示唆を与えてもくれるだろう.

 最後は「イロハ」の「ハ」. ハガキ (葉書) である.

 『アベセデール』には, 日本に関わる事柄が何回か登場する. ヴァンセンヌでの講義にはたいてい日本人学生も来ていたとか, 禅云々といったことである. 大半はそれほど面白い言及ではない.

 しかし, そんな日本趣味のなかにも, 少し面白い話がある.

 「G (左翼)」で, 左翼というのは知覚を変化させるということに関わっているということが言われているのだが, そこで, それは日本人の住所の書きかたのようなものだという言いかたがされている.

 いわく, フランスでは番地, 街路, 都市名, 国名というふうに書いていくが, 日本ではいきなり国名から, つまり非常に大きな世界から始まり, そこから都市名, 云々と続いていき, 最後に自分にたどりつくという.

 これはこれで面白い話だが, べつに日本人があらかじめ左翼だということでもないし, ましてやドゥルーズが日本人を褒めているのではない.

 だが, この「日本」的な住所の書きかたが, ドゥルーズが言うところの「左翼」的知覚を触発するということは, たしかにあるかもしれない.

 思い出すのは10歳のころの自分のことである. 友だちに宛てて季節の便りを出すときに, ふつうは「神奈川県, 横浜市...」と書くところを, バカな少年だった私は「宇宙, 銀河系, 太陽系, 第三惑星地球, アジア, 日本, 神奈川県, 横浜市...」と書いていたのだ. そして, その葉書はたしかに宛先に届くのである.

 これこそまさに, 欲望する機械の配備そのものである. 家族的なもの, 必然性を強いるものを軽々と飛び越え, さまざまなものと接続・切断を繰り返す子どもの特異性, 狂人の特異性そのものである. 私は少年のころ, その意味で「左翼」だったのだ.

 日本的な住所の書きかたが, 子どもの世界の知覚にうまく働きかけた.

 そのことを思い出させてくれたドゥルーズに, あらためて感謝したい.