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giorgio agamben & fujiko f. fujio
その他の人々を見抜く方法 ジョルジョ・アガンベンと藤子・F・不二雄*
『d/SIGN』no 7, 太田出版, 2004年4月, pp. 122-129.
1. ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』
ジョルジョ・アガンベンは1942年生まれで, 現在61歳です. 1990年代には, 田崎英明さんをはじめとするほんの一握りの人しか日本語では言及していませんでしたが, 2001年末には京都 (立命館大学) と東京 (東京外国語大学) を訪れ, 講演をしたので, もしかするとそこにいらっしゃったかたもおられるかもしれませんし, 今では少しは知られるようになっているかもしれません.
彼は現代イタリアの哲学者です. 1960年代後半からすでに執筆活動を開始しましたが, 当初はマルティン・ハイデガーやヴァルター・ベンヤミンの影響下で, また同時に, 図像学 [イコノロジー] への興味から, 美学・歴史学・詩学を哲学的な視点から問いなおすような仕事をしていました. それが, 1990年ごろから, 政治への関心を前面に出すようになりました. この経緯について興味がおありのかたはぜひ, 岡田温司さんがアガンベンの処女作『中味のない人間』の解説として書いていらっしゃる「アガンベンへのもうひとつの扉」をご参照ください01.
1990年に『到来する共同性』, 1995年に『人権の彼方に02』(原題『目的のない手段』) と『ホモ・サケル03』, 1998年には「ホモ・サケル」シリーズの第3巻にあたる『アウシュヴィッツの残りのもの04』, 2002年には『開けたもの』, そして2003年には「ホモ・サケル」シリーズの第2巻第1部にあたる『例外状態』が刊行されています. (その他にも本が出ていますが, 今, 私たちの問題にする「政治的なもの」に関わる本はおおまかに言ってこれですべてです.)
これらの本に理論的な背骨 [バックボーン] を与えているのが, 今のところ彼の主著と見なせる『ホモ・サケル』です.
この「ホモ・サケル」とは何かというと, 文字どおりには, ラテン語で「聖なる人間」という意味です. この人物の名が姿を現すのはローマの古い法律です. その法律によると, 親に危害を加える, 境界石を掘り出す, 客に不正を働くなどの違犯をおこなった者は制裁を加えられるのですが, その制裁は厳密に言えば法的な処罰ではないというのです. というのも, その人は法に則って処罰されるわけではなく, その代わりに「ホモ・サケル」であると宣告され, 法の外にあるものと見なされるのです. 通常, 法律に違反した人は, 法の内部にあるかぎりは, 処罰という名の儀礼・儀式に参加することができ, つまりは犠牲として捧げられることができます. しかし, ホモ・サケルになった者は犠牲となることがない (つまり, 平たく言うと, たとえば死刑にはならない) 反面, 法からもともと排除されているので, 誰によって殺害されてもおかしくないのです (ホモ・サケルを殺した人は殺人罪には問われないというわけです).
この興味深い人物も, 特定の歴史のなかにしか出てこないのであれば, それほどの注目には値しないでしょう. アガンベンがこの「ホモ・サケル」を取りあげたのは, このような存在が, 体制が主権の理論を必要とし, 問題が法的なものに抵触するたびに, 産み出されてきたからです. 法において法の例外とされる (法によって法の外に置かれる) という逆説的な状況を特権的に示すのが, この「ホモ・サケル」なのです.
『ホモ・サケル』の第1部では, このような「法の例外」が産み出される論理的な構造が, まずは図式的・理念的・思弁的に検討されます. そこでの主人公は主権者, つまり何が例外であるかを決定しこれを生産する側の者,「ホモ・サケル」が誰であるのかを決める側の者であり, その者の行使する法です. 主権者はそのようにして, 例外化の対象を法の適用から除外しますが, つまるところその除外こそが主権者を主権者たらしめるのです. 自分の威力の及ばないところを産み出すというしかたで示される, 主権権力のこのような逆説的な作用をアガンベンは「締め出し」と呼び, これこそが主権を定義づけると言います. そして, その主権権力の矛盾があらわになるのが, 例外の空間が法の空間と区別できなくなる状況であり, そのような状況が日常化してきているのが今日の世界だ, という不吉な示唆が第1部の最後でなされます.
第2部では, そのような主権者によって「例外」とされるほうのさまざまな形象が, 西洋の歴史のなかにたどられ, 再検討に付されます. その冒頭に登場するのが,「ホモ・サケル」です. ここでまず問いなおされるのは, この「聖なる」人物の担わされる聖性の意味です. というのは, アガンベンによれば, この聖性こそが, 政治と生のあいだに生まれる問題を明確に捉えることを阻んできた元凶だからです. つまり, 問題が中心に近づくと, そのつど「生の聖性」ということが言われ, 何もわからなくなってしまうということです.
「聖なるもの」ということほど曖昧なものもありません. それも, その曖昧さは, 科学によって縮小されるどころか増大されてきました. 主権権力の基礎をなす聖化 (つまりは例外化) の機構は, 科学によって解明されるどころか, その依拠したイデオロギーによって隠しこまれてしまったとアガンベンは言います. 聖なるものは崇敬の対象にも唾棄の対象にもなる, 上にも下にもある, とする, 穢れたものと聖なるものはじつは一緒なのではないかという, 誰もがどこかで耳にしたことがあるはずの疑似科学的なイデオロギーがそれであって, これは人類学における「タブー」という偽の概念によって代表されました. アガンベンは, この「聖なるものの両義性」に関するイデオロギーに対する批判を議論の軸として, 主権権力が威力を示すときにはつねに「生の聖化」が見られるということを論証していきます. その論証の過程で, さまざまな時代の「聖なる生」の事例が個々に検討されていきます.
第3部では, このような議論をふまえたうえで, 主権権力が人民自体に託されると言われるとき, つまり民主主義なるものが成立するときに何が起こるのかが問われます. つまり, 私たちの今, 生きている世界が, それに照らしたときに何であるのか, ということです. 例外が規範となってしまう状況が日増しに日常化していくのが今日の世界であるという示唆はすでに第1部で提示されたとおりですが, その不吉な状況が人民主権という原則とじつは何らかの関係をもっているのではないか, というのがここで立てられる問いです. つまり, 主権権力によって聖なるものとされ例外化されるのは, いまや主権者となったはずの人民の生そのものなのではないか, というのです. 体制が人民主権へと移行したところで, 主権という原則それ自体が問いに付されないかぎり, 生が聖なるものと見なされるということがなくなるわけではありません. 主権者であると見なされる私たちのそれぞれが, その主権によって例外化された生を自分のなかに保持することになってしまう (たとえば, 誰もが尊厳ある生をもっているという言説もここに由来しますし, これと一見矛盾するようですが, 誰もが脳死になれば他人に提供することのできる臓器を抱えながら生きているということもここに由来するわけです). これが, 個々の主権者が規範のうちにありながら例外を生きるという現在の逆説のメカニズムであり, それを名指したのが, ミシェル・フーコーの用語を借りて言われる「生政治 [ビオポリティック]」なのです.
アガンベンはこの逆説を近代民主主義の成立の歴史のなかに逐一確認した後, 今日の「聖なる生」とは何なのか, 今日の「ホモ・サケル」とは誰なのかを, いくつかの例を挙げて問うています. それは, 事実と権利のはざまで存在を無視される難民であり, ナチによって「生きるに値しない生」と見なされて「慈悲殺」の対象となった「白痴」であり, 同じくドイツ第3帝国で「人民」に属すると見なされず人体実験に利用されたり単に抹消されたりしたユダヤ人やロマの人たちであり, 生き生きとした臓器の提供者となる脳死の人間です.
人間が人民の名のもとに政治主体として単一化すればするほど (つまり, 私たちは皆, 人民と見なされており, そのようにして主権をもっていると見なされているわけですが, そのように単一化されればされるほど), このような例外はそれぞれの人の身体のうちに「剥き出しの生」として――単なる生物としての「ヒト」ではあるにしても, 政治的価値をもつ「人間」ではないものとして――住みついていきます. 例外状態が規範となった状況を「収容所」と仮に呼ぶとすれば, 私たちはつねに潜在的にはそのような収容所に身を置いていると言えるわけです (あるいは, 今や収容所は個々の私たちの身体のうちにあると言えます). 望みのときに望みのままに聖なるものと見なされる生を抱えて生きている以上, 私たちは, 犠牲化不可能かつ殺害可能であり, つまり潜在的には「ホモ・サケル」なのだ, とアガンベンは示唆しています.
この状況を脱するには, 規範となった例外状態を例外状態のままで思考しなければならず, そこにおける例外化という事実から出発して, 純粋な生そのものを考え抜くことを学ばなければならない, というのがアガンベンの展望です.
少し駆け足だったかもしれませんが, 以上が『ホモ・サケル』の概要です.
今回は, この『ホモ・サケル』の概要を頭にとどめたうえで, 問題を別の角度から明確にするために, 脱線をしたいと考えています.
2. 『T・P [タイムパトロール] ぼん』と救済の問題
皆さんもよくご存じのはずの, 藤子・F・不二雄 (1933-1996) という漫画家 (本名・藤本弘) がいます. 1989年までは, 現在の藤子不二雄A (本名・安孫子素雄) と2人で「藤子不二雄」という筆名を使っていたので, こちらで記憶していらっしゃるかたも多いと思います.
さて, この人は, しばしば, 救済の問題を, 時間や空間とのかかわりにおいて検討しています.
たとえば『ドラえもん』では, 未来から現代の日常的な世界にネコ型ロボットがやってきて, 未来の発明品で現代の悩みを解決してくれるわけです――その解決は, 結局は役に立たないということで笑い話になるのですが. たとえば,「暗記パン」という発明品があって, これをノートや教科書に押しつけてコピーを取って食べると内容が記憶できるのですが, 主人公の「のび太」がこれを使って, 欲張って調子に乗って大量に学習すると――つまり「暗記パン」を大量に食べると――, 次の日は下痢をして, せっかくの記憶もいっしょに流れてしまう.
『パーマン』では, 他の星から正義の味方の「バードマン」がやってきて, 3人の子ども (と1匹の猿) がその手先に指名されて, 世界の救済に奔走します. ここでも, 笑い話が成立するために, その奔走がドタバタ喜劇で終わるようになっています. たとえばですが, ジェット飛行機を墜落から救い出して家に帰ると, 服を汚したといってお母さんに叱られる, といったぐあいです.
救済のテーマは,『ドラえもん』や『パーマン』では, 主として, 喜劇に原動力を与えるためだけに導入されていると考えられますが, これからまた別のシリーズものをご紹介したいと思います. そのシリーズものでは, 救済と歴史が中心的な主題として置かれ, 喜劇的な側面は極限まで小さくされています. この作品を検討することで, 救済を考えるときにどのような方法があるのかが, わずかではあれ明らかになるのではないかと思うのです.
それは『T・P [タイムパトロール] ぼん』という作品です. 1978年から1986年まで連載され, 1989年には, 1回きりのスペシャル番組としてTVアニメ化もされているようです. 何回か単行本化されていますが, すべてのストーリーを網羅的に収録した単行本は今のところ出ていません. 今, 最も手に入りやすいのは1995年に「中公文庫コミック版」で3巻本で出たものだと思われます.
この作品も,『ドラえもん』や『パーマン』と同じく, 読み切りのエピソードがシリーズになっています. 設定は次のようになっています.
「並平凡 [なみひら・ぼん]」というカギっ子の中学生がいて, 名前のとおり並で平凡なのですが, この少年が, ひょんなことから「タイムパトロール」にスカウトされます.
この「タイムパトロール」というのは, 警察ではなく, 未来に「本部」を置く組織です. 未来では, すでに未来や過去に行き来する方法が発明されていて,「タイムパトロール」は, その仕組みで動く「タイムボート」を使って過去に行きます.
そこで何をするかというと,「本部」からの指令にしたがい, さまざまな未来の道具を使って人命救助をするのです. その原理を,「ぼん」の先輩にあたる「リーム・ストリーム」という未来の女の子が「ぼん」に次のように説明しています.
「タイムテレビ」の監視網があるの. 全世界・全時代を通じて不幸な死に方をした人を助けに行くわけよ. ただ一つ, 歴史にかかわるような人は助けられないの. たとえば...ローマ時代へ行ってシーザーを暗殺から救ったとするわね. すると, 歴史の流れが大きく変わっちゃう05.
つまり, 歴史に関わりのない人たち「だけ」を, 不幸な死から救済する, というのが任務というわけです. 一言で言えば, 無駄な死 (犬死に) をなくす, ということです. (しかし, そもそも, 無駄死にでない死があるか, という, このあたりがじつは問題なのです.)
まず, この「歴史にかかわる人を助けられない」というところですが, これは「航時法」という法律で規定されています (「第1章第1条」は,「T・Pは歴史の流れに影響ある人物を救助してはならない06」). また, これと似たものとして「第2章第16条」もあります.「過去の自然に手をふれる時は未来におよぼす影響を調査の上行うこと07」. つまり, 影響があるような自然には手を触れてはいけない, ということです, あとは,「第5章第1条」があります.「被救助者に物理的な力を加えてはならない. あくまでも自然に08」....
次に, T・Pの装備について若干を説明します. 未来らしいいろんな装備が用意されているのですが, 物語上不可欠ないくつかのものだけをご紹介します.
すでにお話ししたとおり,「タイムボート」は時空を自由に移動するバイクのようなものです. これで, 救済する対象の人物がいる時間・場所に行くわけです.
それに加えて, 次のようなものがあります.
「タイムコントローラー」という魔法の杖のようなものがあり, これを使うと, 時間の流れを止めたり, 早めたり, 遅らせたりできます. これで, 時間の通常の流れのあいだに介入して, 目当ての人をさまざまな手段で救出するわけです.
それから, この救済の活動が, 救済する対象の人物を含め, あらゆる人に知られてはならないので, 任務の遂行中は「フォゲッター」というリスト・バンドの形をしたものを作動させておかなければならないことになっています. それを作動させると, 活動が人々の記憶に残りません.
そして最後に, 私がこの物語の設定において最も重要だと考えている道具があります. それは「チェックカード」という小さな板状の道具で, それを物や動物, 人間などに近づけると, それが歴史に関わるものであるかどうかがわかる, というものです.「その物に手を加えると歴史が変わるかどうかを調べる」道具, というわけです. 歴史が変わるばあいは――つまり, その対象が「歴史的」であるばあいは――,「チェックカード」が光ります.
そのばあいは, その対象に働きかけてはいけないわけです. 逆に言えば,「チェックカード」が光らなければ, それ――物だったり人間だったりしますが――を動かしてもいいし, 救済してもいいわけです.
つまり, T・Pが救済することができるのは,「チェックカード」が光らない人だけ, ということです.
これは, タイムマシンがらみの物語につきもののタイム・パラドックスをどのように回避するか, という必要から産まれた道具立てだと考えられます. つまり, 物語の構造自体が, 物語の細部を要請している, とも言えます. ここからが問題なのですが, T・Pが「歴史的」と呼ぶものは, 未来をしかじかのしかたで成立させる役に立つことになる, という意味です. たとえば, クレオパトラの鼻の高さは, その意味で「歴史的」です. これに介入してはいけない. 未来が変わってしまうからです. 歴史的でない, とは, その逆で, それがあろうがなかろうが, 生きていようが死んでいようが, 未来が変わらない, ということです. このばあい, 歴史的とは, 過去とも現在とも関係がない. この「歴史」では, 未来だけが――より正確には, 未来が変わらないということだけが――重要なのです.
例を挙げれば簡単におわかりいただけるかと思います. たとえば,『T・Pぼん』の最初のエピソードで救済されるのは, 1947年の東京で, キャサリン台風で家ごと流されて死んでしまうことになっている老婆です. このおばあさんは, 歴史的ではありません. つまり, 彼女はその後, 生きようが死のうが, 未来は変わらない (他の世界が何も変わらない) ということが, 未来からのまなざしによって確認されている. だからこそ, 救済することができる. この奇妙な逆説, おわかりいただけるでしょうか? 他にも, ヨーロッパでおこなわれていた魔女狩りから少女を救済する, というようなエピソードでも, 1人くらい救済しても未来は変わらないので, 救済することができるわけです.
すべてのエピソードがそのようにして成り立っています.
さらに, 物語の構造上の矛盾――矛盾というか, 非常に奇妙なのに読者からは当然と見なされている点――があり, それがこの「歴史」問題と密接に関わっています.
それは, すべてのエピソードが, 何らかの歴史的出来事を扱っている, ということです. 舞台はつねに, 歴史上有名な時代と場所です. 歴史的でないものを救済しに行くにもかかわらず, その行き先はつねに歴史的なのです. キャサリン台風や魔女狩りのほか, エジプトのピラミッド建設, 南方民族の日本列島への渡来, 三蔵法師の旅行, 特攻隊など, 舞台はつねに, 歴史的興味を惹くものであり, 未来に影響を及ぼすことになるものです (つまり, それらは歴史に書かれている). ですが, その舞台で, その歴史に関与しない者を選択的に扱うのが, この物語なのです.
たとえばですが, まったく歴史的でない舞台に行けば, 何の問題もなく, いくらでも人々を救済することができるのではないか, と考えてもいいはずですが, このマンガではそのような舞台は描かれません. 物語の構成上, それはもちろん当然なのであって, 歴史的ではない舞台には, タイムマシンでわざわざ行く価値は, 物語上ないからです. 仮にそんなところに行ったとしても, 毎回同じような話になってしまうでしょうし, 過去に行くという必然性が物語からは失われ, その時代, その場所に行くということに説得力をもたせるのはかなり難しくなってしまうでしょう.
また, 物語の構成上二次的な理由もあります. それは, 作者の意図です. じつは, 藤子・F・不二雄は無類の歴史好きで, 取材旅行と称しては世界各地の遺跡に出かけるほどだったのです. それも, 取材旅行が頻繁におこなわれた時期は『T・Pぼん』の執筆時期とほぼ重なっています. この時期の彼は, 公に知られているだけで, マヤ文明の遺跡, 中国各地, インカ帝国の遺跡, イースター島, ネス湖, トルコの古代遺跡などに行っています09.
単行本の後書きとして書かれた「「T・Pぼん」で書きたかったこと」という短い文章のなかで, 作者は次のように書いています.
僕は史劇映画が大好きです. いわゆる歴史劇ですが, 必ずしも史上有名な人物や事件がでてこなくても, その時代の空気や匂いが感じられれば満足なのです. [...] 日常の行動やものの見方考え方など, 現代の規範では理解できない部分が多かった筈. そんな部分もひっくるめて, 可能な限り過去の忠実な再現を見たい. つまり, タイムマシンで本物の過去の世界を目の当たりに観たいというのが, 僕の究極の夢なのです. [...] そんなこんな過ぎた時代への思い入れを漫画にしたくて「T・Pぼん」を書きました10.
歴史に関与せずに, しかし歴史的なものの「空気や匂い」に浸る, しかも「救済」という肯定的な振る舞いをともなって――これが, 藤子・F・不二雄が自らの欲望を充足させつつSFマンガを成立させるにあたって思いついた仕組みでした. これはちょうど, たとえばですが, 推理小説を発明したエドガー・アラン・ポウの振る舞いにも似ているかもしれません. 彼は, 知性の純粋な働き自体 (つまり推理) を小説の中心的な道具に据えたいと思いつつも, 物語としての興味が失われてしまわないように, 単に知性の「雰囲気 [エア]11」(これはポウ本人の言葉ですが) だけを演出してみせることでこのジャンルを発明したのでした.
さて, 構成がおわかりいただけたところで, あらためて『T・Pぼん』の問いを整理したいと思います.
すなわち, 問いはこうです. 救済に値するとは, どのようなことなのか? 救済されるということはいいとしても, しかし, 救済されうるということ自体, 救済可能性自体は――乱暴な言いかたになりますが――はたしていいのか, 悪いのか? というのは, 救済されうると見なされるということは, 歴史上, 結局自分には何の意味もない, ということを意味するわけですから.
この問いをとりあえず立てたままにして, 藤子・F・不二雄による「歴史」の説明をあらためて見てみることにしたいと思います. 彼はこれを, 図で表してくれているのです.
すでに正隊員になった「ぼん」が, 自分の助手になった「ユミ子」に, 次のように説明しています.
人類発生以来, 無数の人びとが無数のできごとを経験してきた. そのできごとの一つ一つをブロックにたとえれば, 歴史というのはそのブロックで組み上げられたくずれやすいブロック塀だ. 現代のぼくらは, いわばそのてっぺんに住んでるわけだ.
たくさんのブロックの中には, できの悪いのもある. T・Pの仕事ってのは, それをとりのぞくことなんだ. でも...どちらかといえばほかのブロックにしっかりくっついていて...それをぬきとるとほかのブロックもぬけちゃうという, そんなのが多いんだ. そんなのをむりやりひっこぬくと, どうなる? そこからあとの歴史は, すべてなかったことになる. すべての人びとが消滅する! だから, 原則として, T・P本部調査局がさがし出した人だけしか助けちゃいけないんだ12.
さて, このブロック塀の譬喩が登場するエピソードの歴史の舞台となっているのは, これまた, 積み重ねられた石の舞台, マヤ文明のピラミッド (チチェン・イツァのエル・カスティージョ, 別名ククルカンのピラミッド) なのです. 単なる偶然かもしれませんが, そのように意識して読むと,『T・Pぼん』には, ピラミッド状のものが他にもたくさん出てくることに気づかされます. それらについても順次, 触れますが, 今はとりあえずその事実だけ指摘しておいたうえで, 先に進みたいと思います13.
ここで注目したいのは, 石積みのピラミッドを舞台にするときに, 意識的か無意識的かはわかりませんが, 石積みの構築物を「歴史」の譬喩に使おうと思いついた, 作者の連想です.
3. バベルの塔, ピラミッド
そもそも, ピラミッドのような構造の石積みの建造物は, 持続的な活動とそれによる大きなものの完成というその性格から, またそのもつ幾何学的で象徴的な性格からと思われますが, 周知のとおりさまざまな譬喩に用いられてきました.
その第1は,「バベルの塔」です14. 周知のとおり,『聖書』に登場するヘブライ人の伝承です.「創世記」(11: 1-9) には次のようにあります.「世界じゅうは同じ言葉を使って, 同じように話していた. 東のほうから移動してきた人々は, シンアルの地に平野を見つけ, そこに住みついた. 彼らは「レンガを作り, それをよく焼こう」と話しあった. 石の代わりにレンガを, しっくいの代わりにアスファルトを用いた. 彼らは「さあ, 天まで届く塔のある町を建て, 有名になろう. そして, 全地に散らされることのないようにしよう」と言った. 主は降ってきて, 人の子らが建てた, 塔のあるこの町を見て, 言われた.「彼らは一つの民で, 皆一つの言葉を話しているから, このようなことをし始めたのだ. これでは, 彼らが何を企てても, 妨げることはできない. 我々は降っていって, ただちに彼らの言葉を混乱させ, 互いの言葉が聞きわけられぬようにしてしまおう」. 主は彼らをそこから全地に散らされたので, 彼らはこの町の建設をやめた. こういうわけで, この町の名はバベルと呼ばれた. 主がそこで全地の言葉を混乱 [バラル] させ, また, 主がそこから彼らを全地に散らされたからである」.
この逸話は, バビロニアに数多く建設されたジッグラト (ズィクラト) という塔, なかでも新バビロニア (カルディア) のネブカドネザル2世が建設したと言われるものをもとにして生まれたと言われています.『T・Pぼん』にも, 1回だけ, 物語に直接は関係しないしかたでではありますが, ジッグラトが登場しています15.
この「バベルの塔」を図像化したものとしては, ピーテル・ブリューゲル (1525-69) の『バベルの塔』(1563) や, M・C・エッシャー (1898-1972) の『バベルの塔』(1928) が知られています.
これらの描きかたを見るかぎり, 人々が塔の建設に挫折するというところははっきりとわかります. ブリューゲルは実際に崩れかけの塔を描いていますし, エッシャーは, 一見, 順調に建設中にも見える塔を描いてはいますが, 組み立てかたが途中から変わっているところを描くことで, また人々を黒と白に色分けすることで, これを示しています.
しかし, これら2つの作品では, その混乱を惹き起こしたのが神だ, というところは, あまりはっきりしていません16. 人々が単にてんでばらばらな工事を勝手に始めてこのようになってしまった, と取れなくもありません. 塔が未完成であることの責任は, 少なくとも図像から判断するかぎりは, 人間へと委ねられていると言えます.
むしろ, ブリューゲルの作品が描かれるよりも前の, 14世紀の挿絵入り『聖書』を参照したほうが, この逸話の構成要素がはっきりするかもしれません.
この, 上のほうの雲に注目していただきたいと思います. 神とおぼしい中央の人と, 左右の雲から突き出している腕が, サスマタのような道具で, はっきりとしたしかたで塔の建設を妨害しています.
この神の姿ですが, さきほどご紹介した説明のなかにあった, 失敗した「T・P」の姿とちょうど重ならないでしょうか? もちろん,『聖書』の神が塔の未完成に向けて意図的に介入をしているのに対し,「T・P」のほうは,「歴史」という一種の塔の完成に向けて介入し, あの例ではそれに失敗している, という違いはありますが.
また,『聖書』の神は, 過去には介入せず, 建設のおこなわれている現在に介入しているにすぎませんし, その介入は, 塔の未完成を通じて間接的にではありますが, 人々に逸話という形で知られるにいたっていますが, それに対し,「T・P」のほうは過去――すでに積まれたブロック――に介入し, しかも介入が成功するときには誰にも知られない, つまり, いわば「歴史」という塔は完成のまま変わらないわけです.
ここではとりあえず, この違いを理解したうえで, にもかかわらず「建築への介入」というところが共通しているということを記憶にとどめておいていただければと思います.
巨大建造物の譬喩の第1はこの「バベルの塔」, ジッグラトですが, 第2は「ピラミッド」に関するものです17.
さきほど, メキシコのピラミッドであるチチェン・イツァのエル・カスティージョについては触れましたが,『T・Pぼん』には, いわゆるピラミッド, つまりエジプトのピラミッドも登場します18.
ただしそれは, 最も有名なギザの「3大ピラミッド」(第4王朝のクフ王, カフラー王, メンカウラー王のピラミッド) ではなく, 第3王朝の2代めにあたるジェセル王がサッカラに建設したとされる階段ピラミッド (BC2650頃) で, これは「3大ピラミッド」より1世紀ほど早く建設された, おそらくは歴史上最古のピラミッドです. ちなみに, 実際に建築を指導したのは宰相イムヘテプ (イムホテプ) で, 彼はこのことから, 名の判明している世界最古の建築家とも言われる人物です. ついでに言えば,「T・P」が救済しようとする人物が, イムヘテプの計略でピラミッドに生き埋めにされた人であるというところも, 示唆的です.
さて,『T・Pぼん』の話は, とりあえずここまでです.
4. 「エジプトの霊廟」とバートルビー
これからお話ししようと思うのは, この「ピラミッド」が象徴や哲学的隠喩になってたどった奇妙な運命についてです. (時代や領域が若干飛びますが, しばらくご辛抱ください.)
1830年代のニュー・ヨークの街路に, マクドナルド・クラークという名の男がいました. 彼は「振る舞いは無害で目立たない」人で,「街路をぶらつき, ぼんやりとした様子で, まるで何か痛切な悲しみを背負ってでもいるかのように舗道をじっと見つめていた」だけの人です. 定職もなく, 少し頭がおかしい感じはありましたが, 何でもない人です.「歴史」とは何の関わりのない人だ, と言ってもいいでしょう. しかし, この人がやがて, ある施設に収容されることになります. 収容された理由は, もちろん, 理由もなく街路をぶらついていた, ということです.
その収容先は「司法庁舎」(正義のホール), あるいはより正確には「ニュー・ヨーク市の正義のホール, 拘置の家」というところで, つまりはニュー・ヨークの刑務所です. 現在では「マンハッタン拘置所」と呼ばれているところです. ジョン・ハヴィランド (1792-1852) という建築家によって設計され, 1838年にできあがり, それ以来, 牢獄として使われています. その後, 20世紀の初頭となかばに改修が加えられ, 現在の建築はすでに19世紀なかごろの面影をとどめていないといいます19. しかし, この施設は現在でも, 初代の建築のころにつけられた綽名で呼ばれています.
ハヴィランドは多くの公共施設を設計しましたが, なかでも牢獄の設計で知られています. 彼はニュー・ジャージーの収容所 (1836) も設計しており, そちらも有名です. そこで彼は建築にエジプト様式を導入しています. じつは, ニュー・ヨークの拘置所もこれと同じ様式で設計され, それが綽名の由来になっているのです. すなわち, その建築はエジプトの陵墓を思わせるように設計され,「霊廟 [トゥームズ]」と呼びならわされることになったのです20.
見たところでは, それはピラミッドというより, ルクソールやカルナックにあるような神殿を思わせます. ともあれ, 時代の要請によって, いわゆる「歴史」のない土地に――もちろん先住民たちの「歴史」を無視すればですが――歴史の「空気や匂い」,「雰囲気」をもたらすために建築されたこうした公共の施設が, つまるところエジプト文明を参照することになったということは, たしかに興味深いと言えます. 当時の『イヴニング・ポスト』紙には, この建築について, 次のような記事が掲載されています.「これは, 私たちの公共建築物のなかでも最も立派なもののうちに数えられることになるだろう. [...] エジプト様式であるが, この様式は, そのどっしりしたところ, 厳格な様子, 驚異的な強さという見かけをもっていることから, この種の建造物にはよく合う21」.
この「霊廟」に収容された, さきほどの名もない「浮浪者」マクドナルド・クラークですが, この人が私たちにかろうじて関わりをもつのは, この人をモデルにして登場人物を創造し, その人物が主人公となるような短篇小説を書いたのかもしれない小説家がいるからです22. それはつまり,『白鯨』で知られるハーマン・メルヴィル (1819-91) であり, 短篇小説とは, 彼が1853年に発表した「筆生バートルビー ウォール街の物語」です.
物語のあらすじは次のようになっています.
時代は1850年代初頭. 語り手はニュー・ヨークのウォール街に構えた事務所で平穏な業務をこなしている初老の法律家「私」で, 羽振りのよかった数年前を回顧しています. 3人の使用人 (筆生を2人と使い走りを1人) を雇用していましたが, 業務量の増加から, さらに1人の筆生を新たに歩合制で雇用することになりました. それが正体不明の寡黙で蒼白い, バートルビーという男です.
仕切りに囲われた自分だけの持ち場で, 彼ははじめ, 勤勉すぎるほどの筆写を黙々とこなしていますが, 筆写の照合をするように言われたときから,「しないほうがいいのですが」という, その後も繰り返すことになる定式を口にしはじめます. 彼のこの得体の知れない「好み」はしだいに度を超したものになり, 彼はついに筆写することさえやめてしまいますが, かといって事務所から出て行こうともしません. どうやら帰宅することもなく事務所に住み憑いてしまっているようなのです. 自分の机の脇にある窓から見える行き止まりの壁のほうを向いたまま, 動こうともしません.
脅してもすかしても彼の「好み」を変えることができず, それだけでなく, その「好み」によって自分の振る舞いまでもが奇妙な影響を受けていると感じはじめた法律家は, 自分のほうが事務所を移転させて彼を厄介払いすることにします. しかし, バートルビーは元事務所の建物から離れず, その界隈のガラが悪くなることを恐れる大家と入居者の手配によって,「霊廟」――つまりさきほどの牢獄――に「浮浪者」として収容されてしまいます. 彼はそこでも食事すらしようとせず, まもなく獄内の庭の片隅でぐったりと横たわって死んでいる姿を発見されます. (これに後日談が続きますが, 省略します.)
この物語については多くのことが書かれてきました. 文学者も, 文学研究者も, 哲学者も, ありとあらゆることを書いてきました. ここでは, それらをいちいち検討することはここではできません. (哲学者たちの反応については, 刊行準備中の本――メルヴィルの短篇とアガンベンの「バートルビー」論を合わせたもの――に, まとめた解説を付すつもりですので, 刊行後にそちらを参照していただければ幸いです.)
読者たちの反応を網羅的に検討することはここではできませんが, ただし唯一, ほぼすべての読者が「謎」だと感じて立ち止まった箇所があるということは, 指摘しておかなければなりません. それは他でもない, バートルビーが法律家のさまざまな言葉に対して返す唯一の言葉,「しないほうがいいのですが」です. この言葉は, 語り手である法律家を茫然とさせるだけでなく, 読者をも茫然とさせ, 謎のなかに投げ入れてしまうものであるとして, この謎を明らかにすることがさまざまな方法で試みられてきました. そもそも, この言葉こそ, 法律家をバートルビーの救済からつねに遠ざけてしまう, にもかかわらず法律家をバートルビーの救済へと駆り立てるものなのです.
そのような謎の探究のなかでも最も明快と思われる例として, モーリス・ブランショによる注解を参照してみましょう.『災厄のエクリチュール』(1980) からの引用です.
拒否は受動性の第一段階である, と言われる――だが, それが故意のもの, 意志的なものであるなら, 否定的決定をであるにせよ決定を表現するものであるなら, 意志は, 意識の権力からきっぱり離れることを可能にしてはくれず, 最善でも, 拒否する自我であるにとどまる. たしかに, 拒否は絶対へと, いわば無条件なものへと向かう. それは, 文筆の徒バートルビーの「 (それを) しないほうがいいのですが」という容赦のない台詞が感じられるものにしてくれている拒否の結節点である. 決定を必要としないその回避は, あらゆる決定に先立つもの, 否認以上のものである. むしろそれは辞退であり, 言うことすべて――言うことの権威すべて――の放棄 (けっしてはっきりと口にされることのない, けっして明らかにされることのない放棄) であり, あるいはまた, 自我の遺棄と見なされる棄権であり, 同一性の棄却である. それは自己の拒否ではあるが, 拒否のうえに縮こまってしまうことはなく, 衰弱へ, 存在喪失へ, 思考へと開けている.「したくありません」というのでは, 依然として生気に充ちた決断を意味し, 生気に充ちた矛盾を呼び寄せてしまっていただろう.「しないほうがいいのですが...」は忍耐の無限に属するのであり, それは弁証法的な介入に対して捉えどころを残さない. 我々は存在の外に陥ってしまった. それは, 動きのない破壊された人間たちが同じ歩みでゆっくりと行き来している, 外の領野だ23.
この,「しないほうがいいのですが」は, ブランショの言うとおり,「したくありません」ではありません.「したくありません」であれば, 自由意志が想定され, そのように意志する理由までもが想定されうることになります. こちらであれば, この短篇小説の語り手である法律家も対処できます.
じじつ, 法律家は, バートルビーが居座っているせいでおかしくなった自分の頭を正常に戻すべく, 宿命論を語る哲学の本を読むという, 一見奇妙な振る舞いに出ているのです24. ですが, これは今なら, たとえばですが, ジェイムズ・アレン『「原因」と「結果」の法則』, ナポレオン・ヒル『思考は現実化する』, オグ・マンディーノ『12番目の天使』といった, 自己啓発をうたう胡散くさいビジネス本を読むような感じを思い浮かべていただければいいのだと思います (もちろん当時はこれらは存在しませんでしたが, 宿命論と自由意志論を合わせたような哲学書がやはり同じように使われていたことが, 作者メルヴィルが皮肉を利かせて語ってくれていることからわかります). 少し引用します.
数日が過ぎたが, 私はそのあいだ暇を見ては, エドワーズの『意志について』とプリーストリーの『必然性について』を少しばかり覗いてみた. 状況が状況だけに, こうした本は健康になるような感じを誘発してくれた. 私は徐々に, ある確信へと導かれていった. すなわち, あの筆生にかかわるこの厄介事は永遠の昔からあらかじめ運命づけられていたことであって, バートルビーは, 全知の神の摂理によって, 私のような単なる死すべき一個の人間には計り知ることのできないしかじかの神秘的な用件のためにうちに遣わされてきた, という確信である25.
すなわち, この法律家の頭のなかには, 自由意志と必然性という対立しかないのです. その対立はじつは偽の対立です. なぜなら, そのいずれを称揚する立場も,「人が行動するにはその行動が最善であると見なすべき理由がある」とするたぐいの前提を疑っていないからです. その理由が, 意志によって保証されるか, 世界の必然性によって与えられるかという違いがあるにすぎません.
人の行動が「好み」によってのみ規定されているように見え, しかもその「好み」に理由が与えられていないとき, このような自由意志と必然性という対立によって世界を捉えている人はこれを, 自分を当惑させる謎としか理解できず, さらにはそこに何らかの「意志」を読もうと必死になり, 自分の「良心」ゆえに, その謎を発したもとである人を「救済」しようとして失敗することになります.
そして, 頑固な, 他人には知られぬままの「好み」を抱えたバートルビーは, あのエジプト様式の建築物へと収容され, 死を迎えました.
さて, アガンベンはというと, 法律家が読んだというジョナサン・エドワーズの『意志について』とジョゼフ・プリーストリの『必然性について』の教説――意志はすべてあらかじめ摂理によって決定されていると主張するもの――からさらに時代を遡り, ライプニッツの「充足理由律」にたどりつきます.
ライプニッツの「充足理由律」とは, 簡単に言うと, 存在するものには存在する必然性がある, ということです. 正確には,「これこれのものには, それが存在しないよりむしろ存在する理由がある」となります. あるいは,「我々の理性はこれこれのものが理由なしに起こりうるということを認めるのを嫌う」とも言われます. この原理がないと, どうなるでしょうか? 物事が存在するということに理由がなくなり, 物事の存在する理由を了解するための理性が無用になります. そこから, 物事を「これこれであれ」と理由をもって意志することすらなくなります. 物事は, 単に,「好み」でのみ決められ, 後は謎になるわけです.
このような「好み」は, ライプニッツにおいては「神」にしか認められていませんでした. それは, 存在を保証するものとしての神です. アガンベンは次のように書いています.
ライプニッツは可能なものに対しては, いかなる自律的な「自らを存在させるための潜勢力」も認めなかった. それは可能なものの外に求められた. すなわち, 必然的存在である神,「事物を存在化する」存在としての神のうちに求められた. (「したがって, なぜ存在が非存在に対して優越するかの原因がある. すなわち, 必然的実在とは, 存在させる存在である」26.)
この原理が解体されると, 次のようになります.
ライプニッツの充足理由律はすっかり転覆され, まったくバートルビー的な形式を引き受けることになる.「これこれが存在しないより以上に存在する理由がないということは, 無より以上ではない何かが存在するということである」27.
これが, バートルビーが「充足理由律」によっては救済されないのみならず,「充足理由律」を脅かしもする理由です.「無より以上ではない何かが存在する」のであり, それが「しないほうがいいのですが」という言葉によって示される「好み」なのです.
では, この,「無より以上ではない何か」とは, どのように想像すればよいものなのでしょうか? そのようなものをイメージできるでしょうか? つまり, 図像化できるでしょうか?
ここでも, やはりアガンベンの読解にしたがってみたいと思います. アガンベンは, ライプニッツの『弁神論』に言及します. そこでライプニッツは, 必然性に関する議論を歴史へと展開して, 存在することができたが存在しなかったものと, 実際に存在したものとのあいだの関係を, 後者が優位に立つと主張しているのですが, そこで奇妙な譬喩をもちだすのです. 以下, しばらくアガンベンを引用します.
[...] ライプニッツは次のように想像する. デルポイの神託でアポロンはセクストゥス・タルクィニウスに対して, ローマ王になれば不幸に見舞われるだろうと告げたが, この応えに満足しなかった彼はドドネのユピテルの神殿におもむき, 自分を悪人へと運命づけた神を責め, その運命を変えてほしいと, あるいはせめて間違いを認めてほしいと言う. ユピテルがこの頼みを拒絶し, ローマをあきらめるようにあらためて言うと, セクストゥスは神殿を退出して, 自分の運命に身をまかせてしまう. しかし, この光景に立ちあっていたドドネの司祭テオドロスが, この件についてさらに知りたいと思う. 彼はユピテルの勧めにしたがってアテナイのパラス神殿におもむき, そこで深い眠りに落ち, 夢のなかで見知らぬ国に運ばれていった. そこで女神パラスが見せてくれたのが〈運命の宮殿〉である. それは輝く頂上のある巨大なピラミッドで, その基礎は無限に下に続いている. 宮殿の部屋は無数にあり, そのそれぞれがセクストゥスの可能な運命のそれぞれを表している. それぞれの可能な, だが現実のものとはならなかった世界がそのそれぞれに対応する. その一室にテオドロスは, セクストゥスが神に説得されて神殿から出てくるところを見る. そこでは, セクストゥスはコリントスに行き, 小さな庭を買っている. 庭を耕すうちに彼は財宝を発見する. 彼は誰からも愛され重きを置かれて, そこで, 老年まで幸福に暮らす. また別の部屋を見ると, セクストゥスはトラキアにいて, そこで王の娘と結婚して王座を継承し, 民衆に敬慕される幸福な主権者になっている. また別の部屋を見ると, 彼が送っているのは平凡な人生だが, 苦痛はない. このようにして, 部屋から部屋へ, ある可能な運命から別の可能な運命へと続いている.「部屋はピラミッド状になっていた. 頂上に向かうにつれて部屋は美しくなり, それはより美しい世界を表していた. そしてついに, ピラミッドの終わりの, 最上階の部屋にたどりついた. それはあらゆる部屋のなかで最も輝かしい部屋だった. というのも, ピラミッドには始まりはあったが, 終わりは見えなかったからだ. つまり, ピラミッドには頂上はあったが, 基礎はまったくなかった. 下は限りなく大きくなっていたからだ. それは, 女神の説明によれば, 無限にある可能世界のなかには, 最善の世界が1つあるからであり, さもなければ, 神は世界を創造しようと決定することもなかっただろうというのだ. だが, 自分より完成度の劣る世界をもたない世界は1つもない. ピラミッドが終わりなく下に向かって続いているのはそのためである. その最上階の部屋に入ると, テオドロスは恍惚に我を忘れた [...]. 我々は真の現実の世界にあり, おまえたちは今, 幸福の源そのものにある, と女神は言った. これが, おまえたちが忠実に仕えるならユピテルが用意してくれるものだ. そしてこちらが今あるセクストゥス, 現実のこれからのセクストゥスである. 彼はすっかり怒って神殿を退出し, 神々の助言を軽んじている. 見よ, セクストゥスがローマに行き, いたるところで混乱の種をまき, 友人の妻を犯している. ほら, 父とともに追放され, 戦に敗れて不幸になっている. もし, ここでユピテルが, コリントスにいる幸福なセクストゥス, トラキアで王となっているセクストゥスを選んでいたなら, このような世界にはならなかったであろう. だが, 彼はこの世界を選ぶより他はなかった. この世界は他のあらゆる世界を超えて完璧な, ピラミッドの頂点を占める世界なのだ」28.
このピラミッドを図像化した挿絵がないものか, ずいぶん探しているのですが, 今のところ見あたりません. 心あたりのかたがいらっしゃったらお教えいただきたいと思っています.
どうあっても, ピラミッドの頂上には現実となった世界があり, その下には, しだいに物事の共可能性 (共可能というのは, 複数の事柄が共に可能であることを指しますが) の少なくなる世界が連なっていることに変わりはありません. アガンベンは次のように言っています.
可能世界のなすピラミッドが表しているのは神の知性であり, その知性の理念は「あらゆる可能なものを永遠全体にわたって含んでいる」とライプニッツは他のところに書いている. 神の精神はピラネージの牢獄だ. いやむしろ, 存在したことはないが存在することのできたものの像を幾世紀にもわたって保管しているエジプトの霊廟だ. そして, その巨大な霊廟を, 数ある可能世界のうちで最善のもの (それは, 共に可能である最大数の出来事を含んでいるのだから最高度に可能な世界である) を選んだ神が折にふれて訪れる, とライプニッツは言う. それは「事物をやりなおす快楽, また自分のおこなった選択が正しかったと確かめる快楽にふけるためである. そして神は必ずや悦びを覚える」. この造物主は, 自分の唯一の選択が正しかったと悦ぶために, 創造されなかったあらゆる可能世界を見ふけるというのだが, これほど偽善的なものを想像することは難しい. というのも, 神はそのために, この潜勢力のバロック的地獄の数限りない部屋また部屋から立ちのぼる, 存在しえたかもしれないが現実のものとならなかったすべてのもの, 他のしかたでありえたかもしれないが世界がこれこれであるために犠牲にされなければならなかったすべてのものの発する途切れることのない嘆きの声に対して, 自分の耳を閉ざさなければならないからだ. 最善の可能世界は無限に延びる影を落とし, その影は階を下って端の宇宙に至るまで続いている――そこは, 天界の住人にとってさえ構想不可能な宇宙だ. そこでは, 何ものも他の何かと共に可能ではなく, 何も現実のものとなることができない29.
この, 神が耳をふさぐ,「エジプトの霊廟」の闇の底のほうから立ちのぼってくる無数の声こそ, バートルビーの「好み」の正体というわけです. それは, 世界の可能性と必然性を現実の世界と可能世界とのピラミッド的な構成から説明しようとしたときに,「好み」が自分の意志とは関係なく洩らす声, しかし可能世界を想定する者たちにはそもそも理解できず謎であるにとどまる声,「エジプトの霊廟」が与えられたがゆえに生じた, 意志とは関わりのない声なのです.
この声を聞きわけるためには, どのような装置が必要なのでしょうか?
「歴史」がSFマンガにおいて舞台化されるときには, その装置は, たとえば,「チェックカード」という形を取るのではないでしょうか? 人はまず,「タイムパトロール」の存在によってあらかじめ「歴史」のピラミッドに閉じこめられますが,「チェックカード」が光らないとき, ピラミッドとは無縁の救済がおこなわれるのです. マンガのばあいは,「歴史」への配慮が物語上, 要請されているというところが限界ではありますが, しかし「チェックカード」は, その枠のなかでの救済を可能にし, そして, 何よりもむしろ, 逆説的に, 世界に「充足理由律」のような原理があるとするような視点からは端的に無視されるであろう人々を救済することが可能になっているのです.
ようやく, 当初考えていた主題にたどりつくことができました. つまり,『ホモ・サケル』という本で提示されている一種の機械とも言える,「ホモ・サケル」を見抜く視点は, この意味で, 現代の政治的なものを思考するうえでのいわば「チェックカード」なのではないか, というのが今日お話ししたかったことなのです.
人民主権はとりあえず仮にいい――たとえば, 絶対王権よりましだ――としても, そのような主権者の一員であるためには, そのような一員として同定されなければなりません. 同定されるやいなや, 私を含む――と理念上は言われる――主権者は, その同定を, 今度は私のなかの「ホモ・サケル」を排除するために活用するのです. 主権の論理の側から見るかぎり, この体制というピラミッドには何の問題もありません.
そこでアガンベンがもちだすのが, 一種の「チェックカード」です.「歴史」(このばあいは「人民主権」における「生政治」ですが) の石積みの構築物で, そもそも構築物には影響しないとして排除されているものがある. それなら, その排除を逆用して, そのように排除されているということを救済の目印にしてはどうだろうか, というわけです.
アガンベンが語る「剥き出しの生」「〈生の形式〉」といった用語は, よく誤解されるようです. その誤解の元も, おそらくはこのあたりにあるものと思われます.
「剥き出しの生」とは, 法権利の外に置かれた生のこと, たとえば脳死の後に, 人間であることをやめて生き生きと横たわっている身体のことです. アガンベンはもちろん, このようなものを, ある機構の帰結として批判するためにこの用語を用いているのですが, その一方で, バートルビーの奇妙な抵抗を評価していることから窺えるように, そのような状態に置かれた者たちを, ある意味では評価の対象にしてもいます. つまり, 剥き出しの生は, 乱暴な言いかたですが, いいのか, 悪いのか?
これは, 次のように考えればいいのだと思います. すなわち, 現在, 私たちの生のなかにつねに見分けられるようになってしまった「剥き出しの生」ですが, そのように見分けられるようになったということから出発してしか, そのように排除されてしまったものを救済することはできない, ということです.
それを救済するにあたって, たとえばですが「人命の尊さ」や「尊厳」をもちだしても, 良心に訴えるという以上の効果はありません. というのも, そもそも, そのように「尊い」「尊厳ある」ものとしてこそ,「剥き出しの生」は「聖なるもの」として, つまりいわば「ホモ・サケル」として, 考慮の外へと置かれてしまったのですから.
そうではなく,「チェックカード」に反応しないということから出発してこそ, 何かを救済することができるかもしれない, ということを考えはじめなければならないのだと思います.
注 :
* 本稿は, 関西学院大学21世紀COEプログラム「人類の幸福に資する社会調査」の指定研究である「幸福のフィールドワーク」(研究代表者・古川彰教授) の第7回研究会 (2004年1月23日) で, 中村律子氏 (法政大学助教授) と金菱清氏 (関西学院大学博士課程) による発表の後で読まれた原稿に手を入れたものである (当日の司会は阿部潔教授と山上浩嗣助教授). また, ほぼ同内容が, 東京大学教養学部に場を借りておこなわれた「バタイユ・ブランショ研究会」(主宰・湯淺博雄教授) の第7回研究会 (2004年3月2日) でも読まれた.
01. 岡田温司「アガンベンへのもうひとつの扉」, in アガンベン『中味のない人間』岡田ほか訳 (京都: 人文書院, 2002), pp. 191-239.
02. アガンベン『人権の彼方に』高桑訳 (東京: 以文社, 2000).
03. アガンベン『ホモ・サケル』高桑訳 (東京: 以文社, 2003).
04. アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』上村忠男・廣石正和訳 (東京: 月曜社, 2001).
05. 藤子・F・不二雄 (以下, Fと略記)「消されてたまるか」, in 『T・P[タイムパトロール] ぼん』1 (東京: 中央公論新社, 1995), p. 35. 行換えや句読点は適宜変更している.
06. F「見ならいT・P」, in 『T・Pぼん』1, op. cit., p. 62.
07. F「古代人太平洋を行く」, in 『T・Pぼん』1, op. cit., p. 145.
08. F「見ならいT・P」, op. cit., p. 73.
09. この種の情報は以下から得た. http://www.fujiko-f-fujio.com/
10. F「「T・Pぼん」で書きたかったこと」, in 『T・Pぼん』3 (東京: 中央公論新社, 1995), pp. 292-293.
11. Edgar Allan Poe, Poe to Cooke (letter dated on August 9, 1846), in The Complete Works 17 (New York: AMS Press, 1965), p. 265.
12. F「チャク・モールのいけにえ」, in 『T・Pぼん』2 (東京: 中央公論新社, 1995), pp. 267-268.
13. ピラミッド状のものが「歴史」に関して登場する例としては家系図も挙げられる. 以下を参照のこと. F「最初のアメリカ人」, in 『T・Pぼん』3, op. cit., p. 80.
14. ちなみに, アガンベンがバベルの塔の譬喩を援用しているテクストとして以下がある. 以下は, マラルメ‐ブランショ的な方向で「作品」概念を再検討に付すものである. Agamben, Il pozzo di Babele, Tempo presente 11, no. 11 (Roma: Tempo presente, November 1966), pp. 42-50. 「天まで届く塔を建造することをあきらめると, 文筆家たちは〈存在〉の深淵の底まで下りる穴を掘りはじめた. 塔の時代, 作品を通じて天に届こうという試みの時代は言語が複数になり混乱するなかで終わった. 文筆家は, 作品のためにさらに非物質的な空間を探し, 今やバベルの穴を掘るのである」(p. 46). この対比は後にジャック・デリダも「竪坑とピラミッド」(注17参照) で用いている.
15. F「シュメールの少年」, in 『T・Pぼん』3, op. cit., p. 119.
16. 『聖書』では「我々は降っていって」云々と, 神が「我々」という複数形になっているところが奇妙だが, これについては今回は時間がなく, 調べられなかった.
17. ヘーゲルが,『美学』第2部第1篇第1章第3節でピラミッドを考察の対象にしていることはよく知られている. Georg Wilhelm Friedrich Hegel, Ägyptische Anschauung und Darstellung des Toten ; Pyramiden, in Werke in zwanzig Bänden 13 (Vorlesungen über die Ästhetik 1) (Frankfurt am Main: Suhrkamp, 1970), pp. 458-460.〔「エジプトにおける死者の観念と表現, ピラミッド」, in 『ヘーゲル全集19a 美学第二巻の上』竹内俊雄訳 (東京: 岩波書店, 1965), pp. 914-916.〕 これに検討を加えている研究として, 以下も参照できる. Jacques Derrida, Le puits et la pyramide (1968), in Marges (Paris: Minuit, 1972), pp. 79-127.〔「竪坑とピラミッド (1) 」高橋允昭訳,『現代思想』1, no. 1 (東京: 青土社, January 1973), pp. 199-218 ; 「竪坑とピラミッド (承前) 」『現代思想』1, no. 2 (東京: 青土社, February 1973), pp. 233-256.〕 また以下も, このデリダの研究から出発してなされたものと見なせる. Denis Hollier, Lédifice hégélien, in La prise de la Concorde (Paris: Gallimard, 1974 [1993]), pp. 9-27.
ピラミッドに含まれた謎については, 考古学に属するものから超心理学に属するものまでさまざまな種類の探究がおこなわれてきているが (その莫迦げた一覧は,「ピラミッド」をキー・ワードにして文献を検索してみれば容易に得られる), それらの探究がなぜなされるのかという問いは, それぞれの探究の正当性の有無とは切り離して立てることができる.
18. F「ピラミッドの秘密」, in 『T・Pぼん』1, op. cit., pp. 81-116.
19. 情報を以下から得た. http://www.correctionhistory.org/html/museum/johnjay/jayshow3.html ; http://www.mcny.org/Collections/paint/Painting/pttcat13.htm
20. 「霊廟 [トゥームズ]」については, さらにたとえば以下が参照できる. Charles Sutton, The New York Tombs (Montclair: Patterson Smith, 1873) ; Luc Sante, Low Life (New York: Farrar, Straus & Giroux, 1991), pp. 244-245.
21. 以下を参照した. http://www.mcny.org/Collections/paint/Painting/pttcat13.htm
22. Allan Moore Emery, The Alternatives of Melvilles Bartleby, Nineteenth-Century Fiction 31, no. 2 (Berkeley: University of California Press, 1976), p. 178, n. 14. なお, この事例は以下から引かれたものとある. Abram C. Dayton, The Last Days of Knickerbocker Life in New York (New York: G. P. Putnams Sons, 1897), p. 168. その他の「バートルビー」のありうるモデルについての議論は以下を参照のこと. Dan McCall, The Silence of Bartleby (Ithaca and London: Cornell University Press, 1989), p. 52.
23. Maurice Blanchot, Lécriture du désastre (Paris: Gallimard, 1980), pp. 33-34. この断片は, 以下を若干修正したものである. Blanchot, Discours sur la patience, Nouveau Commerce, no. 30/31 (Paris: Nouveau Commerce, spring 1975), pp. 27-28.
24. この点に着目した研究としては以下がある. Walton R. Patrick, Melvilles Bartleby and the Doctrine of Necessity, American Literature, no. 41 (Durham: Duke University Press, 1969), pp. 39-54 ; Emery, The Alternatives of Melvilles Bartleby, op. cit., pp. 170-187. しかし, これらには, 後述するライプニッツのピラミッドは登場しない.
25. Herman Melville, Bartleby, the Scrivener: A Story of Wall-Street (1853), in The Piazza Tales and Other Prose Pieces 1839-1860 (Evanston and Chicago: Northwestern University Press and the Newberry Library, 1987), p. 37.
26. Agamben, Bartleby o della contingenza, in Gilles Deleuze & Agamben, Bartleby: La formula della creazione (Macerata: Quodlibet, 1993), p. 67.
27. Ibid.
28. Ibid., pp. 76-77.
29. Ibid., pp. 77-78.
(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました. また, 単に技術的な問題から, 図版キャプションを省きました.)