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『ホモ・サケル』翻訳者あとがき
「翻訳者あとがき」
ジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』高桑和巳訳, 以文社, 2003年10月, pp. 256-262.
本書は, Giorgio Agamben, Homo sacer : Il potere sovrano e la nuda vita, Torino, Einaudi, 1995の日本語訳である. 凡例にも記しているとおり, この翻訳はイタリア語版を底本としている. ただし, 本書はフランス語, 英語, ドイツ語, スペイン語, トルコ語, ポルトガル語の各版 (ポルトガル語版はポルトガル系とブラジル系の2つ) にも翻訳されている. このうちフランス語版, 英語版の2つはいずれも原著者自身が目を通していることが明らかで, それらとイタリア語オリジナル版とのあいだに若干の相違があるため, 本書の翻訳にあたってはこの3つの版を詳細に比較検討し, 故意と思われる重要な相違については注記してある.
本書の内容については本文を参照するにしくはないが, 取り急ぎまとめるなら, 主権権力はもともと例外状態を維持しようとするものだということ, 例外とされ排除される聖なるもの――これが「ホモ・サケル」と呼ばれる――は宗教にではなく政治に関わるものだということ, 政治の領域が拡大されるにつれてその例外はいたるところに姿を現すようになるということ, 以上の3点を論証するのがねらいだとのみ, ここには記しておこう.
本書は同名の連作「ホモ・サケル」の第1巻をなしている. これに続いて「ホモ・サケル」の総題のもとに刊行されているものには, 2003年夏の時点で, 第2巻第1部『例外状態』(2003年), 第3巻『アウシュヴィッツの残りのもの』(1998年) がある.
『例外状態』では, 本書第1部でカール・シュミットを参照しつつ提示されている主権と例外状態との関係がより詳細に検討に付されている. そこではたとえば, 「有事」「緊急事態」「厳戒状態」といった別名も含めた例外状態の系譜がたどられ, ローマ時代の同様の制度「ユスティティウム」(司法の停止) をめぐる解釈が再検討に付され, 例外状態をめぐるシュミットとヴァルター・ベンヤミンの見解の相違が分析される. 法制史の灰色地帯をなしてきた制度を徹底的に読みなおす試みとなっているのがこの『例外状態』である.
『アウシュヴィッツの残りのもの』にはすでに日本語訳が存在している (上村忠男・廣石正和訳, 月曜社, 2001年). そこでは, 現代における「ホモ・サケル」の化身としての「収容所のムスリム」が主題として扱われている. すなわちそれは, ナチの収容所で生きる気力を失い, 仲間であるはずの収容者たちからさえ排除された者たち, すべてに屈服している姿勢が現実のムスリムの礼拝に似ていたがゆえに付けられたとおぼしい綽名をもつ「生ける屍」たちである. この窮極の「ホモ・サケル」についての証言の可能性をめぐる議論を軸として, 『アウシュヴィッツの残りのもの』では語る主体に関する理論の総体が再検討に付されている.
この2冊に加えて, 連作に属すると明示されてこそいないものの, 同一の問題意識から書かれていると考えられる本がさらに数冊ある. 以下に例として2冊のみ挙げておく.
『目的のない手段』(1995年. 日本語訳『人権の彼方に』高桑和巳訳, 以文社, 2000年) は本書とほぼ同時期に刊行された論文集であるが, 連作「ホモ・サケル」に当初与えられていたとおぼしい輪郭がいくつかの側面から具体的に素描されている. 冒頭に置かれた四本の論文「〈生の形式〉」「人権の彼方に」「人民とは何か?」「収容所とは何か?」が本書の各所に――とりわけ第3部に――実質的に統合されたということもあり, この論文集がそれぞれの主題ごとに展開された思考の最初に定着された場であることが窺える.
『開けたもの』(2002年) は, 後述する『到来する共同性』のような小論を連ねた体裁になっているが, その内実は, 「ホモ・サケル」同様に人間と動物のあいだに陥った者たちの幸福と不幸をたどる論考である. そこでは, ジョルジュ・バタイユの「アセファル」(無頭の者), アレクサンドル・コジェーヴの「スノビズム」, リンネの「オランウータン」, 進化論が理論的に想定する「ホモ・アラルス」(現在のヒトと形質的には同じだが話す能力だけを欠く者) などの紹介と検討を通じて, 人間なるものを措定するさまざまな分野の企ての欺瞞が暴露されていく.
近年のアガンベンの活動の大半はこのように, 連作としての「ホモ・サケル」のまわりに拡がる, より大枠のプロジェクトに属していると言うこともできる. そして, このプロジェクトの基礎的かつ包括的な視点を提供してくれる理論的著作は, やはり連作の第1巻をなす本書『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』だと言える.
政治に関するアガンベンの思考は, 本書の刊行から数年を遡る『到来する共同性』(1990年) の刊行を期として, 明白な形で彼の仕事の前面に登場している. そこで提示されている「到来する共同性」や「何であれ (任意の) 特異性」といった範疇は, 彼の政治的思考のいわば肯定的な視点を代表するものとしてある程度は人口に膾炙していた. だが, 本書『ホモ・サケル』とこれを出発点とする数冊の本をまってはじめて, 『到来する共同性』で提示されていた一種のマニフェストが主権権力の分析という具体的な形を取ることになった. 事実, アガンベンの仕事がイタリア, フランス, アメリカを中心に多くの読者を獲得して広範な言及の対象になったのは本書の刊行以降のことである.
この「ホモ・サケル」プロジェクトは進行中であり, 今後の展開も予断を許さない. 続いて刊行されるだろう巻では, 例外状態に関する分析が継続されるかもしれないし, 生政治の系譜がより詳細にたどられるかもしれないし, 「〈生の形式〉」として提示された生との関わりに対する展望がより明確に示されるかもしれない. 一つだけ確実に言えるのは, 今後どのような仕事がなされるにせよ, 本書で提示された「主権権力」と「例外化」, そこで産み出される「剥き出しの生」としての「ホモ・サケル」に関する議論は, 今後の彼の仕事の理論的基礎であることをやめないだろうということである. その意味でも, 本書は彼の主著であり続けると言える.
このような本書を読むにあたって前提されている知識はけっしてわずかではない. だが, 無用な皮肉やほのめかしはほとんどないので, 読者は問題の核心を見失うことなく議論をたどり, 個々の細部について思考することができるはずだ. 文脈に不案内なばあいも, 参照文献をあわせてたどれば, 議論がそのつどどのような問題をめぐって展開されているのかは明確に了解されるにちがいない.
慈悲殺, 臓器移植, 生命倫理一般, 生政治一般など, この本で扱われている多くの主題について, またそれに加えて, しばしば参照されるシュミット, ベンヤミン, ハナ・アーレント, ミシェル・フーコーといった研究者の仕事についても, 幸いなことに現在では一次資料 (あるいはその日本語訳) の刊行も充実し, 研究や議論も活発になされつつある. そのような議論との関係のなかに置かれている本書は, 議論の哲学的韜晦――一見そう思われるかもしれないが――などではけっしてない. この明解な理論書はそれらの実践を参照しつつ読まれるべきであり, ひるがえって, 本書を読むことはそれらの実践に対して少なからぬ意味をもつはずだ (たとえば, 本書に遺伝子操作やクローンについての言及はないが, 本書の議論を拡張すれば, そのつど姿を変える「剥き出しの生」が今日では操作可能な遺伝子の水準に到達しているという理解も容易に得られるだろう).
なお, 本書に明確に言及されてはいないが, 本書とあわせて読むことで新たな理解が得られるようになる著作も少なくない. たとえば第2部第5章は, カルロ・ギンズブルグが1991年に発表した論文「表象」――改稿のうえ『木の目ん玉』(1998年. 日本語訳『ピノッキオの眼』) に第3章として収録された――のことを思わせずにはいない. また, アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの共著『帝国』(2000年), ロベルト・エスポジト『インムニタス (免役=免疫)』やパオロ・ヴィルノ『マルチチュードの文法』, ジャン‐リュック・ナンシー『世界の創造』(いずれも2002年) などは本書の発表以後に書かれたものだが, 包括的な関心領域を本書と共有しており, 本書との併読から得られるものも多いにちがいない.
本書はまた, スラヴォイ・ジジェク『現実界という砂漠へようこそ』, 大澤真幸『文明の内なる衝突』, 西谷修『「テロとの戦争」とは何か』(いずれも2002年), ジャック・デリダ『ならず者』(2003年) などによって――明確にであれ暗黙にであれ――参照されており, その点からも関心を惹くだろう. これらの本は, 2001年9月11日にニュー・ヨークで起こった世界貿易センター・ビル崩壊をきっかけに起こった一連の出来事とそれによって表面化した状況に多かれ少なかれ触発されて書かれたものだが, 本書が当初, 序にあるとおり「地球規模の新秩序の血なまぐさい欺瞞に対する回答として構想」されたということ, またこの「欺瞞」が (より鮮明かつ過激になってきているとはいえ) 今日も継続されているということを考えれば, この一見した時間のずれも驚くにはあたらないのみならず, 本書の提起している問題はますます切迫したものになってきているとさえ言える.
実のところ, 本書の翻訳者が翻訳作業に着手して最初の訳稿を完成させたのは『人権の彼方に』を刊行した前後のことだった. 当初の意図は, 『人権の彼方に』に引き続いてこの現代イタリアの哲学者の政治的思考の中核をともかくも日本語で接近できるものにしようということだった. 「冷たい戦争」が終わって, 資本主義が地球全体になしくずし的に拡大し, それと軌を一にして各地で内戦や「テロ」, 地域紛争が展開されているときに, この状況に見合った有効な批判の道具がありうるとすればそれはアガンベンの思考をおいてほかにないだろうと思われたのだ. 事実, 本書冒頭の「序」と第3部第7章「近代的なもののノモスとしての収容所」, そして最後の「境界線」には, この視点からすると貴重な示唆が多く含まれている. しかし, 「主権権力は例外状態を常態として維持しようとする」という本書を貫くテーゼはさらに今日的な意味をもっている. このことは, このテーゼが「テロ」以降に発表された『例外状態』で再考されたことからも理解できるとおり, 今日的な「例外状態」の時局的展開に対するアガンベンの先見の明をあらためて証明するものだが――最近の一連の災厄によってアガンベンのテーゼがより理解されやすいものになったのは歴史の皮肉だが当然の帰結でもある――, 読者にとってそれより重要なのは, 本書を読むことで, このような「例外化」に依拠する権力が批判可能な対象として理論的にも歴史的にもはっきりと位置づけられるということだろう. この本は, 今日の諸問題に対する作者の立場を知るために使われる単純な道具なのではなく, 諸問題がじつのところ何であるのかを思考するために使われる複合的な機械なのである. 翻訳者としては, 本書がそのように活用されることを願っている.
最後に, 翻訳作業について書いておく. 訳稿を単独で完成させたことはもちろんだが, その後, 数人のかたのご助力をいただいてはじめて刊行までたどりつくことができたことを記さないわけにはいかない. 西谷修さん (東京外国語大学大学院教授) には, 『人権の彼方に』に引き続いて以文社からの翻訳刊行の仲介をしていただき, また訳文の一部についてご意見をいただいた. 上村忠男さん (東京外国語大学大学院教授) からは訳文の全体にわたってご助言をいただいた. さらに, 以文社の勝股光政さんに仲介していただいたインスクリプトの丸山哲郎さんにも, 訳文にご意見をいただいた. また, 勝股さんとの共同作業は多岐にわたる重要なものであったことはあらためて言うまでもない. 本文中の原語指示の大半を削除するという方針も, 実を言えば当初の翻訳者自身の方針とは異なるが, 「原文に忠実であるあまりに著者の意図が分かりづらくならないよう, 一般の読者に届く本として本書を刊行したい」という勝股さんのご意見にしたがって決定したものである. 翻訳者も, 勝股さんの願いどおり, 多くの読者に本書が届くことを願ってやまない.
今回, 刊行に至るまでにはさまざまな困難があり, 本をお手もとにお届けできるのが予定より大幅に遅れた. 読者の皆さんには大変に申しわけなく思っている.
2003年9月
高桑和巳
(ここに再録するにあたり, 句読点その他のタイポグラフィに変更を加えました.)